2011年04月07日

ひとさらいのうた

大震災からこっち、なんか気が晴れない。
音楽でも聴いて気を紛らわそうとしてみた。
おお、いいのあった。小さなよろこび。



あがた森魚のリリシズム。
ワケのわからないあがた森魚の詩の世界。ケーキはケイクで、ハンカチはハンケチ。
こうゆうところに少女の頃の私はコロっと心をさらわれた。
温和な狂人なのか、変わり者の賢人なのか、凶暴なほど繊細。
誰もあがた森魚のような詩は書けないし、あがた森魚のように唄えないと思うのです。




あがた森魚は私に黒板とチョークの匂いをかがせたり、夏の日差しにゆれるカーテンの下に連れて行ったりする。
ある時は頭に麦わら帽子をかぶせたし、南洋の大海原の潮風を甲板に吹かせた。
場末の酒場のマッチ箱だったり、外国の街灯と石畳だったり、渓谷や宝石だったりもした。
タチの悪いことに、誰か好きな人をあきらめる時の気持ちの動きだったり、好きになりかける時の感じだったりもした。
あがた森魚はひとさらいのような人だ。

そんなふうに心をどこかに連れて行かれる感覚は音楽だけでありません。
山本周五郎の土手の秋という短編では、ススキをゆらす秋の土手の風と、暮れていく陽の残り火に照らされた。見えたのではなく本当に感じた。
樋口一葉の十三夜は、月明かりと虫の音のする夜道の風の匂いと温度の中に私を連れて行った。青い草と枯れた草の匂いだった。

そのようなひとさらいの仕事に私は敬意を感じている。
これは、すごい、すごい仕事だと思う。
単に私が自分の気分第一で情緒に流されがちの、さらわれやすい性質なだけかも知れないけれど、他の人にもさらわれるものや、さらわれていく場所があるのではないかなと想像している。

さらわれるものやさらわれる場所が同じだったり、近かい場所だったりする時に、「ああ、あのシトはものの分かったいいヤツだ」などと思い、感性が合うなんて言い方するんじゃないでしょうか。
それぞれにさらわれて行く国がある、そんな気がする今日この頃。うまく書けないから、ワケの分からないこと言ってすんません。
なので、私は「このシト感性が合わないわ〜」と思うような出来事にぶつかった時は、仕方ないや、国が違うんだから言葉も通じにくいのさ、と思うようにしています。
どの国もそこが好きな人にとってはきっと良い国なんだろうからね。



最後に、震災で気がふさぐ人に贈ります。
船を漕いでいきましょう、という意味の唄ですよ。

posted by 青グリン at 13:56| Comment(9) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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